daredemo-naiのブログ

推敲しないことを自分に許すブログ

脈絡がない

よく家族から聞かされる話がある。私が2歳くらいのころに、「私は方言を喋らない、標準語を喋る」と決意表明したという話だ。

自分でもなんとなく覚えている。家族や近所の人が話す言葉と、テレビから流れてくる言葉。アナウンサーや芸能人の使う言葉の方が綺麗であるように感じて、「私は標準語を喋る!」と決意し、それを家族に宣言したのである。2歳で。

今思えば無気味だし、家族からすれば自分達の言葉を子供に否定されてはたまったものではなかっただろう。しかしそれから私は本当に標準語だけを使うようになり、幼稚園でも小学校でも一切方言に染まることなく、それを貫き通した。

とにかく意思が強い。意思が強いと書くと聞こえはいいが、ようするに頑固。

今になって思うのは、自分は昔から「全て自分で選択したかった」のだ、ということである。

そもそも自分が使う言葉なんて、自ら選択するものではないはずだ。少なくとも母語は。「母」なる言語と書くのだから、生まれてくる親を選べないのと同じくらい、自分の意思ではどうすることもできない事象のはずである。その時点から自分の好みを優先させるあたり、相当に我儘な子供という印象がある。

そしてその「自分で選択したさ」を、割と今でも引きずっているなあ、と感じる。

 

話は飛ぶが、私はよく「女学生」的な意識を持つことがある。

ここで言う女学生とは、一番イメージに近いのはジブリの主人公、わかりやすいものでいうと太宰治の『女生徒』の主人公、その他さまざまな小説の一人称を担う女学生、などである。

(※ジブリ、まともに見た作品がトトロくらいなので、違うかもしれないです。あくまで個人的なイメージの話なのでご了承ください)

坂を駆ける・自転車で風を切る・その時になびく柔かいスカート・鞄には文庫本・ちょっと不思議な場所に足を踏み入れた時の目を輝かせる反応、そういったイメージの群れ。耳をすませば、とかだろうか?

こうしたイメージの中にいる「女学生」の意識が、ふと自分に乗り移ることがある。中高生の頃は特に多かったし、今でも起こる。

特に「自分の好きなもの」に対しては、女学生的な意識がむき出しになりやすい。
好きな本・音楽などに触れる時、さらに言うとその作者など「憧れの誰か」を目の前にした時。憧れの対象に目を輝かせるのは普通の反応なのかもしれないが、私の場合、その相手から見て「女学生」でいよう、と無意識に行動していることが多い。

この女学生のイメージとはつまり、目を輝かせて夢見る女のことであり、悪く言えば無知の象徴とも言えるかもしれない。自分はとにかく「純粋」にあなたとあなたの作品に惹かれているのです! と自信を持って主張するための仮面とも言える。否、仮面というほどはっきりとしたものではなく、香水のような、軽く身にまとうものに近い。

この女学生的意識をまとって行動すると、周囲の目を気にせずに済むというメリットがある。
周囲の目とは、即ち自分の目のことでもある。自分がなりたくない女性像が、周囲に無数に存在して、その人達とは違う自分であるために、作り出した自分とも言える。

ところがこのイメージをまとい続けていると、憧れは憧れる対象でしかなく、その対象と同じ場所に立つことができない。少なくとも私の中の女学生は、「夢は夢のままでいいじゃない」と言っている。誰なんだお前は。

しかし、いざ対象と同じ場所に立ってみると、そこにあるイメージは突如として「強い女性」に変化する。私はこの「強い女性」のイメージの持つ色合いや顔立ちがあまり好みではないので、出来ることなら選び取りたくない上、そのイメージは自分とは少しずれている。すると現れるのは「異性から好かれない女性」像になる。

これらは全て私の持つ超個人的なイメージで、しかしこれまでの人生で目にした様々なイメージの集合体である。自分は「女性」という性別の中にある無数のイメージから、選び取ったものをまとっている。

これは性別の話だけではない。私は決してジェンダー的な話がしたいわけではない、のだと思う。

 

人は自分に関することを、ある程度選択できる。けれどそれにも限界がある。

性別、年齢、身長、顔立ち、家庭環境など、自分では動かすことのできない「規定」が存在し、その規定から逃れることはできない。選び取ることができるのは、その規定の中に存在するイメージだけである。

そんな既存のイメージをまとう、という考え方そのものがおかしいと言われるかもしれないが、当然私だって常にそうという訳ではない。何も考えずにいる時もあるし、その時々によって「この状況、ああいう映画のああいう場面みたいだ」と思って少し陶酔するとか、ちょっとしたごっこ遊びに近い感覚でもある。
けれどもそうしているうちに、段々とまとったイメージに支配されてしまうことも、あるのではないか。

もしかすると多くの人には、選び取っているという意識もないのかもしれない。
ただ前述のように、とにかく自分は「自分の手で選び取りたい」という気持ちが強いので、そのさらに外側にある「規定」に目が向きがちになる。
私はその「規定」そのものから選び取りたいのに、そう簡単には出来ない。
たとえばAの規定の中では利点の多いイメージも、Bの規定の中では敬遠されたりする。そこから変えることができたら、なりたい自分になれるのに! と考えることがある。これは要するに稀代の我儘ということか。

そしてこの文章を書いている私自身もまた「こういう文章を書く女性」というイメージをまといつつある。段々と自分の中にこのイメージが取り込まれつつある。
(これは書店の棚にある「女性作家」の札と、その小説が紛れもなく「女性」によって書かれたものであると感じる意識に似ている)


いや待て、そういうものに飲み込まれないように、私はこのブログを匿名的な場として始めたのではなかったか? 私には年齢も性別もないです。そういう場所にしていきたいと思います。
文字は自由だ。