daredemo-naiのブログ

推敲しないことを自分に許すブログ

小説を読めない

小説を読むのがあまり得意ではないと最近気がついた。
正確には、ある程度余裕がある時でなければ難しい。

基本的に文字中毒なので、本を常に持ち歩いていなければ気が済まない。しかしだからといって、色んな作家を次々と読むというタイプではない。どちらかというと同じ作家の本を、何度も読む。心地の良い文章があれば、それを繰り返して読むだけで基本的に満足してしまう。

物語世界は逃避場所と言う人がいるが、あまりそう思えない。物語には基本的に人間がいて、様々な感情が渦巻いている。創作物とはいえ、その感情の混沌に触れるのは疲れる。

特に、現代を舞台とした小説はかなり疲れる。それってほぼ現実ではないのか? たとえばSNS上で見る赤の他人の物語と、何がどう違うのだろうか。どちらも同じような世界に生きる他人の物語という点では大差がない。そうした理由からか、明治文学のような遠い時代の作品は比較的手に取りやすい。外国人作家の本はほとんど読まない。カタカナの名前が全然覚えられないから。

しかし自分から遠い作品ですら、余裕がない時には読み辛い。疲れていると他人の感情に当てられて感情を揺り動かすことが面倒だと感じるようになる。出来るならば何も感じたくない。否、決して無感動になっているわけではなく、感情が動きやすいだけに、ちょっとした作品に触れただけでどっと疲れてしまう。

ただ前述したように、私は完全な文字中毒なので、手元にある文字はどんどん読んでしまう。そのため私は、完全にTwitter中毒者になっている。ひたすら文字が流れてくる場所から目が離せるわけがない。助けてくれ。

しかしTwitterを漫然と眺めつづける生活は堕落への一途をたどるばかりだと気がついたので、本を買ったところ、非常に精神状態が良くなった。
青色本』というヴィトゲンシュタインの著書で、彼自身の言語哲学の講義がそのまま文章になっている。論理をひたすら目で追っているのも楽しい上に、言葉の話を読むというのは文字中毒者にとって完全な喜びという感覚だった。

芸術学や美学系の本は読む機会が多かったが、完全な哲学書はいきなりカントを読んで気が狂うかと思って以来、ほとんど手を付けていなかった。しかし、比較的読みやすい哲学書であれば、表層的な感情を揺れ動かすことなく、文字を目で追いたい時に最適なのではないか。学問目的であれば適切な理解が目指されるだろうが、完全な趣味であれば何も気にしなくていい。

自分は小説を読むのが好きと勝手に思い込んでいた(小さい頃から本=物語ばかり読んでいた)が、実は違うかもしれない、と思うようになったので、記録しておく。

(さらに書くと、高校の時に小説を書きまくったことにより、人の文体から見える思考や表現や比喩ばかり見るようになってしまった弊害かもしれない 一度でも創作したら以前の視点を取り戻すことは出来ないと学んだ)

 

脈絡がない

よく家族から聞かされる話がある。私が2歳くらいのころに、「私は方言を喋らない、標準語を喋る」と決意表明したという話だ。

自分でもなんとなく覚えている。家族や近所の人が話す言葉と、テレビから流れてくる言葉。アナウンサーや芸能人の使う言葉の方が綺麗であるように感じて、「私は標準語を喋る!」と決意し、それを家族に宣言したのである。2歳で。

今思えば無気味だし、家族からすれば自分達の言葉を子供に否定されてはたまったものではなかっただろう。しかしそれから私は本当に標準語だけを使うようになり、幼稚園でも小学校でも一切方言に染まることなく、それを貫き通した。

とにかく意思が強い。意思が強いと書くと聞こえはいいが、ようするに頑固。

今になって思うのは、自分は昔から「全て自分で選択したかった」のだ、ということである。

そもそも自分が使う言葉なんて、自ら選択するものではないはずだ。少なくとも母語は。「母」なる言語と書くのだから、生まれてくる親を選べないのと同じくらい、自分の意思ではどうすることもできない事象のはずである。その時点から自分の好みを優先させるあたり、相当に我儘な子供という印象がある。

そしてその「自分で選択したさ」を、割と今でも引きずっているなあ、と感じる。

 

話は飛ぶが、私はよく「女学生」的な意識を持つことがある。

ここで言う女学生とは、一番イメージに近いのはジブリの主人公、わかりやすいものでいうと太宰治の『女生徒』の主人公、その他さまざまな小説の一人称を担う女学生、などである。

(※ジブリ、まともに見た作品がトトロくらいなので、違うかもしれないです。あくまで個人的なイメージの話なのでご了承ください)

坂を駆ける・自転車で風を切る・その時になびく柔かいスカート・鞄には文庫本・ちょっと不思議な場所に足を踏み入れた時の目を輝かせる反応、そういったイメージの群れ。耳をすませば、とかだろうか?

こうしたイメージの中にいる「女学生」の意識が、ふと自分に乗り移ることがある。中高生の頃は特に多かったし、今でも起こる。

特に「自分の好きなもの」に対しては、女学生的な意識がむき出しになりやすい。
好きな本・音楽などに触れる時、さらに言うとその作者など「憧れの誰か」を目の前にした時。憧れの対象に目を輝かせるのは普通の反応なのかもしれないが、私の場合、その相手から見て「女学生」でいよう、と無意識に行動していることが多い。

この女学生のイメージとはつまり、目を輝かせて夢見る女のことであり、悪く言えば無知の象徴とも言えるかもしれない。自分はとにかく「純粋」にあなたとあなたの作品に惹かれているのです! と自信を持って主張するための仮面とも言える。否、仮面というほどはっきりとしたものではなく、香水のような、軽く身にまとうものに近い。

この女学生的意識をまとって行動すると、周囲の目を気にせずに済むというメリットがある。
周囲の目とは、即ち自分の目のことでもある。自分がなりたくない女性像が、周囲に無数に存在して、その人達とは違う自分であるために、作り出した自分とも言える。

ところがこのイメージをまとい続けていると、憧れは憧れる対象でしかなく、その対象と同じ場所に立つことができない。少なくとも私の中の女学生は、「夢は夢のままでいいじゃない」と言っている。誰なんだお前は。

しかし、いざ対象と同じ場所に立ってみると、そこにあるイメージは突如として「強い女性」に変化する。私はこの「強い女性」のイメージの持つ色合いや顔立ちがあまり好みではないので、出来ることなら選び取りたくない上、そのイメージは自分とは少しずれている。すると現れるのは「異性から好かれない女性」像になる。

これらは全て私の持つ超個人的なイメージで、しかしこれまでの人生で目にした様々なイメージの集合体である。自分は「女性」という性別の中にある無数のイメージから、選び取ったものをまとっている。

これは性別の話だけではない。私は決してジェンダー的な話がしたいわけではない、のだと思う。

 

人は自分に関することを、ある程度選択できる。けれどそれにも限界がある。

性別、年齢、身長、顔立ち、家庭環境など、自分では動かすことのできない「規定」が存在し、その規定から逃れることはできない。選び取ることができるのは、その規定の中に存在するイメージだけである。

そんな既存のイメージをまとう、という考え方そのものがおかしいと言われるかもしれないが、当然私だって常にそうという訳ではない。何も考えずにいる時もあるし、その時々によって「この状況、ああいう映画のああいう場面みたいだ」と思って少し陶酔するとか、ちょっとしたごっこ遊びに近い感覚でもある。
けれどもそうしているうちに、段々とまとったイメージに支配されてしまうことも、あるのではないか。

もしかすると多くの人には、選び取っているという意識もないのかもしれない。
ただ前述のように、とにかく自分は「自分の手で選び取りたい」という気持ちが強いので、そのさらに外側にある「規定」に目が向きがちになる。
私はその「規定」そのものから選び取りたいのに、そう簡単には出来ない。
たとえばAの規定の中では利点の多いイメージも、Bの規定の中では敬遠されたりする。そこから変えることができたら、なりたい自分になれるのに! と考えることがある。これは要するに稀代の我儘ということか。

そしてこの文章を書いている私自身もまた「こういう文章を書く女性」というイメージをまといつつある。段々と自分の中にこのイメージが取り込まれつつある。
(これは書店の棚にある「女性作家」の札と、その小説が紛れもなく「女性」によって書かれたものであると感じる意識に似ている)


いや待て、そういうものに飲み込まれないように、私はこのブログを匿名的な場として始めたのではなかったか? 私には年齢も性別もないです。そういう場所にしていきたいと思います。
文字は自由だ。

 

 

感じないことがない

最近友人から「今まで好きだったものが突然どうでもよくなる」という話を聞いた。

彼女は絵を描くのだが、その衝動は「その色が好き」というような、原始的で強いものだったらしい。しかし最近、そのような喜びも感じなくなっていると言う。

スランプみたいなものは誰にでもあるだろうが、どうやらそういった刹那的なものではなく、かつて感じていたほどの強い感覚を得ることが減って来たそうだ。年取るとそうなるのかなあ、と言っていた。

自分が今まで感じていた強い何かが、だんだんと薄れていくことを想像して、私はひどく恐ろしかった。

ただ今のところはその気配は全くない。逆に、今までは周りと共有出来ていた感動や感覚を、だんだん1人で持て余すようになっているように思える。

昔から好きなものは偏っている。何にでも感動する訳ではないし流行り物には冷ややかになりがちである。けれど好きになるととことん突き詰め、深まり、それは終わることがない。周期はあってもまためぐってくるので、好きが消えるという感覚は少なくともここ数年はない。

その感動を共有する機会が減っている。いや、もともとマイナーなものにはまりがちで仲間が見つかりにくいということはあるけれど。それでも、かつて同じように何かを愛していた(はずの)友人たちは、なんだか別の場所に行ってしまった。

もしかすると私は前に進めていないのか? 過去の感動も、かつて好きだったものも、捨てられずにいる。抱えたまま突っ立っていたら、いつのまにか周りから人がいなくなっている。

それとも、他の人たちが自分と同じように何かを愛していたという発想そのものが傲慢なのだろうか。自分は何にでも深くはまりがちなのだから、自分が感じているほどの強い気持ちは、実は多くの人が抱いている訳ではないのかもしれない。そう考えるのも失礼なのか?

そしてさらに厄介なことに、私は感情を表に出しにくい。文字に起こして感動を伝える自信はあるのに、表情や発声でその衝動をぶつけることがあまりに下手、かつ躊躇してしまう。そのせいか、自分の抱えている強い気持ちや感動は、実は周りには伝えられていないのかもしれない。

それは良くない。伝えなければいけない。そう思って、突然告白のように直接的な感情吐露をして驚かれたりする。もっと小出しにするべきなんだ、その方が生きやすい。生きるの下手か?


何が言いたかったんだ。とにかく、感じなくなることは今のところなく、感じることは増える一方で、それなのにみんなどこかへ行ってしまって、持て余しているという話をしたかった。真夜中にこうして長文を書き連ねたくなるのも、きっとそういう理由だと思う。

誰でもない

諸事情より、初めてペンネームというか、芸名というか、別の名前を得た。

今まで小説や音楽や、何かしら作品を発表する時にもかたくなに本名を貫いてきた。なぜかはよくわからない。

ところが一度別の名を得てみると、不思議な浮遊感というか、身軽さを手に入れた。

名を得た初日は、その名を名乗ることも、自分に苗字から名前から全く別の名称が与えられていることが違和感でしかなく、自己分裂を起こすのではないかと感じていた。

しかし、その名前には目的がある。自分の生活から社会活動から全てをまかなうための、本名とはわけが違う。「創作活動の際のみ」に用いるという明快な目的を持った名前である。

その事実が身体に入り込んだ瞬間に、すっと何かが抜けたような感覚を得た。

私はどうも、一つのことだけを究める人生を歩むことは出来ないらしい。ほとんどの人はそうかもしれないが、自分の場合、集中力はないくせにオタク気質なものでタチが悪い。一つのことに長時間取り組めるわけでもないのに、一つ一つに研究者的な欲求を抱いてしまうせいで、身体も世界線も正直一つでは持たないと感じる。

でも今の私には、もう一つの名前がある。今までのように全ての人生を一つの名前に背負う必要はない。何の解決にもなってはいないが、それはすごく気楽なことのように思えた。

当然別の名前を得たとはいえ、その人物を動かすのも自分自身なのだから、負担が明瞭になっただけなのかもしれない。でもまあ、そういうのは、気持ちだし。今はそういう気軽さを得たということだけ、ここに書き留めようと思った次第。

 

一人の人物を演じ続ける役者に惹かれる。彼は彼自身でもあり、演じ続ける或る人物でもある。その作品も全て本人が作っていたら、その人物は役者自身にぴったりと貼りついていて、切り離せる存在ではないように感じる。

そういう人物と役者の関係性はすごくロマンチックだ。彼らは全く別人でありながら一つの身体を共有する存在であり、彼が一人で酒を飲めば杯を交わしたことになる。

別の名前を得るのは、そういう不思議な人々の仲間入りが出来たようで、少し楽しい。あとは私が彼女をどれだけ生かしてあげられるかにかかっている。頑張れよ自分。