daredemo-naiのブログ

推敲しないことを自分に許すブログ

感じないことがない

最近友人から「今まで好きだったものが突然どうでもよくなる」という話を聞いた。

彼女は絵を描くのだが、その衝動は「その色が好き」というような、原始的で強いものだったらしい。しかし最近、そのような喜びも感じなくなっていると言う。

スランプみたいなものは誰にでもあるだろうが、どうやらそういった刹那的なものではなく、かつて感じていたほどの強い感覚を得ることが減って来たそうだ。年取るとそうなるのかなあ、と言っていた。

自分が今まで感じていた強い何かが、だんだんと薄れていくことを想像して、私はひどく恐ろしかった。

ただ今のところはその気配は全くない。逆に、今までは周りと共有出来ていた感動や感覚を、だんだん1人で持て余すようになっているように思える。

昔から好きなものは偏っている。何にでも感動する訳ではないし流行り物には冷ややかになりがちである。けれど好きになるととことん突き詰め、深まり、それは終わることがない。周期はあってもまためぐってくるので、好きが消えるという感覚は少なくともここ数年はない。

その感動を共有する機会が減っている。いや、もともとマイナーなものにはまりがちで仲間が見つかりにくいということはあるけれど。それでも、かつて同じように何かを愛していた(はずの)友人たちは、なんだか別の場所に行ってしまった。

もしかすると私は前に進めていないのか? 過去の感動も、かつて好きだったものも、捨てられずにいる。抱えたまま突っ立っていたら、いつのまにか周りから人がいなくなっている。

それとも、他の人たちが自分と同じように何かを愛していたという発想そのものが傲慢なのだろうか。自分は何にでも深くはまりがちなのだから、自分が感じているほどの強い気持ちは、実は多くの人が抱いている訳ではないのかもしれない。そう考えるのも失礼なのか?

そしてさらに厄介なことに、私は感情を表に出しにくい。文字に起こして感動を伝える自信はあるのに、表情や発声でその衝動をぶつけることがあまりに下手、かつ躊躇してしまう。そのせいか、自分の抱えている強い気持ちや感動は、実は周りには伝えられていないのかもしれない。

それは良くない。伝えなければいけない。そう思って、突然告白のように直接的な感情吐露をして驚かれたりする。もっと小出しにするべきなんだ、その方が生きやすい。生きるの下手か?


何が言いたかったんだ。とにかく、感じなくなることは今のところなく、感じることは増える一方で、それなのにみんなどこかへ行ってしまって、持て余しているという話をしたかった。真夜中にこうして長文を書き連ねたくなるのも、きっとそういう理由だと思う。